読書ノート

ロールズとスミス(1)-連帯社会の哲学を求めて

Note
中村圭介
2024.2.23

1.連帯社会

 東京大学社会科学研究所から法政大学連帯社会インスティテュート(通称、連合大学院)に移り、そこで初めて「連帯社会」という言葉に触れて、関心を持つようになりました。自分の職場の名前である「連帯社会」について何の考えも持っていないというのは無責任だし、格好良くないと思ったからです。
 いったい、どういう社会になれば「連帯社会」ということになるのだろうか、誰がその社会を構築するのだろうか?と素朴に考えるようになりました。私はそれまで労働研究をしてきており、福祉国家論とか福祉社会論とかを勉強したことはありませんでしたから、何から手をつけてよいかわからず、いろいろ勉強する必要がありました。
 普通の市民が互いに手を結び合い、助け合う、そうした連帯をベースにした社会、これが連帯社会というのかなあと漠然と考えるようになりました。でも「市民」というだけでは具体的にはイメージできません。新しい勤務先の連合大学院には労働組合、協同組合、NPOの3つのプログラムがあり、そこで連帯社会の担い手を育成しようというねらいがありました。私がそういったアイデアを出したわけではありません。連合や法政の関係者のアイデアです。安易な発想ですが、では、この労働組合、協同組合、NPOを連帯社会の担い手にすればよいかと考えるようになりました。ただ、それだけでは不十分です。自分なりにいろいろ考えたあげく、次のような絵を描いたらどうだろうかという思いに至ります。
 生活や仕事上で何か問題を抱えて困っている人びと、あるいは生活や仕事の状態をより良い状態に持っていきたいと願う人びとに支援の手を進んで差し伸べる。支え手と受け手が常に決まっているというわけではなく、ときには支え手と受け手の立場を変えながら、状況に応じてみんなで支え合う。これが、連帯する社会の姿だと考えたらどうだろうか。では「支援の手を差し伸べる」主体はいったい誰なのか?
 すぐに思いつくのが「自助」です。まずは自分で自分を助けようとする。たとえば貯蓄、個人年金、自主的学習、家族の支援などによって生活や仕事の状態を改善する、あるいは困難から脱却する。地縁、血縁のネットワークで支えることも、このカテゴリーに含めてもよいでしょう。
 二つめは中央政府、地方政府が支援する。いわゆる社会政策、社会保障政策がこれにあたり、具体的には失業・雇用政策、社会労働保険制度、社会福祉や生活保護制度などのことです。これらの政策では国民から徴収した税金や保険料が財源とされており、広い意味の共助(国民自らが互いに助け合う)ですが、政策の実施主体に着目すれば私的な機関ではなく、公的機関ですので、こうした支援の仕組みを公助と呼ぶことにしました。「公(おおやけ)が助ける」。
 三つめは「共に助け合う」。これは、特定の人びとが共に助け合うために、特定の目的を持った組織を設立することです。生活や仕事の状態を改善するために、あるいは問題を解決するために、労働組合を結成する、協同組合(消費生活協同組合、労働金庫、こくみん共済coopなど)を結成する。これが共助、「共に助け合う」。
 四つめは自助でも、公助でも、共助でもなく、任意の個人、組織が、生活や仕事の状態の改善や問題の解決を願う人びとに支援の手を差し伸べる。この仕組みを私は「他助」と呼ぶことにしました。造語で、それほど流布していない用語です。「他人が助ける」。こうした意味の「他助」は昔より宗教団体、慈善団体などが行ってきたものです。宗教家や篤志家などが、宗教的、道徳的な使命感などに基づいて困っている人びとを救済する。こうした慈善事業は現在でも行われています。
 ただ、私が注目する「他助」とは、日本社会でこの30年くらいの間で広まってきた、普通の人びとが、生活や仕事の状態の改善を願う人びと、あるいは困難からの脱出を望む人びとに対して「助け」を差し伸べる行為です。しかも、そうした活動をボランティアとして行うだけではなく、自らの仕事として行う。「仕事として行う」とは、その活動によって自らの生計を立てるということです。私がここで念頭に置いているのはNPOです。
 これらの4つの「助」を体系的に組み合わせることができれば、より効率的に、より有効な支援が提供できるのではないだろうか、それが連帯社会を築くことになるのではないか。こう考えるようになりました。

2.地方連合会・地域協議会と労働者福祉協議会

 連帯社会の担い手として、私が注目したのは、地方連合会・地域協議会と労働者福祉協議会です。前者はナショナルセンターである連合の地方組織、後者は連合、産業別組織、労働金庫、こくみん共済coop、生活協同組合などでつくる、緩やかな共助の組織です。注目した理由は、これらの組織は共助の組織でありながら、すでに、私のいう「他助」に乗り出しているからです。
 労働組合については「地方連合の挑戦」(三浦まりとの共著、『衰退か再生か:労働組合活性化への道』連合総研との共編、勁草書房、2005年)、『地域を繋ぐ』(教育文化協会、2010年)、連合総研『地方連合会・地域協議会の組織と活動に関する調査研究報告書』(2018年)、『地域から変える-地域労働運動への期待』(教育文化協会、2021年)で、地方組織の実態を明らかにしています。労働者福祉協議会については『連帯社会の可能性』(全労済協会、2019年)、連合総研『共に支え合う連帯社会の構築をめざして』(2023年)で、都道府県に設置されている労福協の組織、活動などを調べています。
 とりわけ、緩やかな共助の組織である労福協に大いなる期待を寄せており、連帯社会を構築する結節点として積極的な役割を果たして欲しいというのが、現在の私の個人的な希望です。

3.可能性と善

 個人的にそう考え、勝手に期待しているだけで、本当にその可能性があるのか、果たして「連帯社会」は「善き社会」なのかについて確信を持っているわけではありません。その確信を得たいために、ジョン・ロールズ『正議論 改訂版』(川本隆史、福間聡、神島裕子訳、紀伊國屋書店、2010年)、アダム・スミス『道徳感情論』(村井章子、北川知子訳、日経BP社、2014年)を読んでみようと思いました。ただ、学部時代にまじめに勉強せずふざけた生活を送り(そのことは「最終講義」で正直に語っています。なお、「最終講義」は談話室の「講義室」の最後で映像を見ることができます)、研究者としては労働調査だけをやってきた私にとって、正直にいって、この2冊はかなりハードルが高い。したがって、参考書を片手に読み進むことにしました。『正議論』では訳者の一人である川本隆史の書いた『ロールズ-正義の原理』(講談社、2005年)、『道徳感情論』では堂目卓生『アダム・スミス』(中央公論新社、2008年)に頼りながら、ロールズとスミスの理解に努めています。
 この2冊を読めば、確信が得られるという自信があったわけではありません。ただ、乱読をし続けている私にとって、まあ読んでみたいなあと思っていた2冊です。『正議論』はだいぶ以前に読んで、挫折して、途中で投げ出したという苦い経験があるのですが、だからこそ、挑戦してみようかなと思いました。
 まだ、理解の途中ですが、わかったこと、納得できたこと、わからないことなどが出てきています。この読書ノートで途中経過をわざわざ書くのは、備忘録を作成しておいた方がよいとの思いからです。自分の教養のなさ、無知、無能さをさらけだすのは恥ずかしいのですが、しかし、70歳を超えて、いまさら恥ずかしがっても仕方ないだろうとの開き直りもあります。
 スミスの言う「公平な観察者」(impartial spectator)。自分の心の中に築きあげ、自分や他人の行為や感情を評価し、「称賛」か「非難」を与える「公平な観察者」。なるべくなら、「公平な観察者」が「称賛」を与える行為をとり、感情を抱こうとする人間。この考えはかなり面白く、「そうそう」と思いながら、読んでいます。とりわけ、「公平な観察者」が称賛に値すると判断する行為は、慈恵(benevolence、他人の利益を増進する)であり、慈恵的な行為を駆り立てる感情は「寛容、人間愛、親切、同情、友情」などである。こうした感情が基本にあれば、「連帯社会」を構築することは可能ではないか。そう考えているところです。
 ロールズはやはり難しい。正義の二原理。第一原理は「基本的自由は各人に平等に与えられるべきこと」。まず、これが最初に満たされなければならない。その後で、第二原理=格差原理は「社会的・経済的不平等は①そうした不平等が最も不遇な人びとの期待便益を最大に高め、かつ②公正な機会の均等という条件のもとで全員に開かれている地位や職務に付帯するものだけに限られるように、編成されなければならない」。第一原理は普通に納得できる。だが、第二原理(格差原理)は具体的にどういうことなのかが、「わかった」という気になれません。さらに、この正義の二原理は、感覚的に理解できても、論理的にどう導き出されるのかがよくわからないのです。第二原理(格差原理)から、現実社会の所得再分配の正当性がどのように演繹されるのかもわからない。読み込み不足だとはわかっていても、自分の無能を見せつけられているようでくやしい。
 ただ、連帯社会は第二原理を満たすための一つの装置になるかもしれないという、見通しはなんとなく持つことができています。
 
 まだまだ、道は遠い。ただ、十分に理解できないという「くやしさ」を乗り越えて、なんとか進んでいきたいと思います。以上、歩み出したばかりの途中経過報告でした。

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